かごしま文化財事典プラス

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文化財特集
鹿児島の歴史と文化財

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中世

モノから知る戦国島津の歴史

 平家滅亡後の文治元(1185)年、惟宗忠久は島津荘の下司職(荘園管理の実務を行う役職)に、翌年には地頭職に補任され、建久8(1197)年には薩摩・大隅の守護に任じられました。また、建久9(1198)年には、荘園の名称を名字として島津氏を名乗りました。その後、南北朝の全国的な動乱や国人一揆等の内乱(伊集院頼久の乱)、応仁の乱後の島津宗家の弱体化による地方豪族の反乱、15 代貴久による薩摩・大隅の制圧、16 代義久による薩 隅日(薩摩・大隅・日向)の三州の再統一など、南北朝・室町・戦国時代には、戦乱が多発しました。そのため、県内には多くの中世山城が築かれています。本県の中世山城は、国史跡である「知覧城跡」(南九州市)や「清色城跡」(薩摩川内市)、「志布志城跡」(志布志市) など、シラス台地縁辺部に立地し、崖を空堀の一部とする等、シラス台地特有の地形を利用した 「南九州型城郭」とも呼ばれる城が多くみられる点が特徴です。

 なお、15世紀中頃から17世紀初頭まで、琉球国の統治下に置かれていた奄美群島においても、城が築かれていきます。国の史跡である「赤木名城跡」(奄美市)は、按司と呼ばれる有力者が築いたもので、奄美地域屈指の規模をもち、全体の構造からみて本土の影響がみられることが注目されます。
 南九州の戦乱の世を制した島津氏に関連する文化財は、数多く残されています。島津家の初代である忠久が着用していたと伝えられる「赤糸威鎧 兜・大袖・杏葉付 一領」や島津貴久が鹿児島神宮に寄進した「色々威胴丸 兜・大袖付 一領(肩萌黄)」などは国の重要文化財に指定されています。
 また、島津氏のお家芸ともいわれる犬追物に関する故実書や絵画、明治期に使用された装 束・道具類、写真などの「犬追物関係資料」や幕末の名君といわれる島津斉彬を撮影した「銀板写真(島津斉彬像)一枚」も国の重要文化財に指定されています。